おまめモ

おまめがメモをしています

【Note】自分の居場所とか

いつもふわふわ流されているような気がしてモヤモヤしている。

自分の足で動くのは大変だから流されるほうがラク。しかし、この頃はそれがどうもおもしろくない。

本当に僕はそこにいたいのか。

 

僕はおそらくマイペースであり、人に合わせるのがあまり得意ではない。

それなのに周りに流されていて、人に合わせてソコにいる気がする。

 

自分のありかたについて考えると、息が詰まって苦しくなる。

 

常に自分の納得できる選択なんてものはあり得ない。

だけど時々は自分で納得できる場所にいられるようになりたいと思う。

 

自分の足でソコにいて、自分の足で立っていたい。

周りがどうこうではなく、ソコにいたいからソコに居られるようになりたい。

【Note】日記のほかにちょっとした記録を

かれこれ随分前から続けている日記。ほぼ日手帳を使い始めてからは4年目になります。よく毎日続けられるなあと自分のことながら感心です。

 

そんな2019年の手帳を眺めていると「My100」という100項目を書き記すリストがなくなっていました。数年間使っている中でこれほど重宝したオマケページはなかったので本当に残念です。

このMy100には、毎日を記すうえで日記とは違う100のことを記録しようと考えていました。そして不得意である外食をした日にちとお店を記し始めたのが昨年。随分埋まった2018年のリストを見返しながら、来年はどうなるかとわくわくしていた矢先のことです。

とはいえ、仕様上なくなったものは仕方がない。とくべつ楽しかったものをオマケページの「Favorite」に記すようにしました。ウーン、残念。

 

このほかに昨年は睡眠時間を簡単にメモしていました。

本文中の「寝不足」のワードを見つけると、その日の睡眠時間を眺めてみます。すると、結構少なかったり、思ったよりは多かったり。そのときの感覚といまの感覚に違いがあったり、さまざまな面で楽しめたメモでした。

しかし、睡眠時間メモは記録することで良くも悪くも睡眠時間を意識してしまいます。僕はあまり眠れていないのを気にするようになってしまったため記録を中断。読み返す分にはおもしろいことも、全ての記録が正解とは限らないようです。

 

手帳にはおそらく使わないようなページ、使わないような部分があるはずです。そこをうまく活用すればちょっと変わった記録がつけられます。ほんの些細なことでも、視点をそこに向けられれば生活もなにか変わって来る予感がします。

記録の内容は人それぞれ。外食リストが使えなくなってしまった今年はオマケページをどのように活用しようか思案中です。

【Note】オフラインイベントがやりたい

主にゲームの話になるのですが、オフラインイベントをやりたいとずっと温めています。イベントなんて大層なものでもないのですが。

オンラインで遊べる時代になってから集まって遊ぶ機会が減りました。家にいたまま1人でもわいわい楽しめるのはとてもありがたいことです。そのうえで、集まって遊ぶとどうなるのでしょう。きっと楽しいだろうなあと思うのです。

以前3DSとモンハンを携えてゲーセンへ通っていました。名前も知らない人とゲーセンだけの付き合いです。連絡も取らずゲーセンでなんとなく集まって遊ぶだけの微妙な距離感。よくわからない間柄でも同じ趣味、同じ楽しさを共有できてとても楽しめていました。格ゲーでも同様のことが起きています。

同じ場所にいて声を掛け合ったり、事あるごとに一喜一憂したり、他愛もない会話をしながら楽しめるゲームは、普段とは全く違うものになるでしょう。

 

一緒に楽しむことのほかに、自分たちの居場所を作りたい気持ちも強くあります。

家にいて全てができてしまうゲームに対し、わざわざ出かける必要はない、というのももちろんアリ。僕はわざわざ出かけてコミュニケーションを取りたいと考えているタイプです。

不定期でもちょこちょこ開催して、来る人来ない人がいて、ちょっと集まろうぜ、みたいな雰囲気の居場所がほしい。そこではゲームをせずに眺めているだけの人もいて。

そういう場所がなかなか作れない、存在しない気がしていて、とりあえずはイベントスペースなんかをレンタルし、ゲームを持ち寄って楽しめたらな、なんて考えています。

小学生のころからそんなことを企てていました。1度規模が大きくなりすぎて担任からお叱りを受けた思い出もあります。そんなことをするのが好きなのでしょう。

それが縁となり、その先もありそうな予感がしています。温めているだけでもウキウキのアイディアです。

【Note】未来や過去よりも今を一番大切に

2018年ももうすぐ終わってしまいます。今年はあっという間の1年でした。

駆け抜けていく時間に対してこの頃思うのは、「今」にエネルギーを使うこと。

今までの僕は「こうなったらどうしよう」と起こる前のできごとをあれこれ想像して勝手に不安がっていました。せっかく頭の中で世界を作るなら楽しい世界を作れば良いのに、わざわざ苦しい世界、つらい世界を作り上げてしまう。それをクセのように無意識で行ってしまっていたのが良くなかった。

また、起きてしまったこと、過ぎてしまったことに対して憂うエネルギーももったいない。常に進んでいる時間の中で、戻ってやりなおすことは不可能です。何をするにも取り返しのつかない過去に対して「あれをしたほうが良かった」と考え込むならば、その膨大なエネルギーを今していること、これからやる楽しいことへ向けたほうがオトクだと思うようになりました。

もちろん先を見据えること、過去を反省するのは大切です。しかし、今自分がいるのは今でしかない。そうなると、現在5、未来3、過去2くらいのエネルギー配分で生きたら楽しいのではと考えるようになりました。現在8、未来1、過去1でも良いのかもしれません。

考える人が多すぎる社会、考えなければいけない現代で、未来や過去を考えずに生きるのはまずできません。それでも気分を切り替えて生きることはできます。どんなに気になる未来があっても、頭を抱える過去があっても、最も大事にしなければならないのは今です。それが楽しいことをする今ならばなおさらです。全力で楽しいことを満喫しなければもったいない。

そんなふうに思えるようになった2018年の今日この頃です。

【Note】めんどくさいと思いながらコーヒーを淹れたい

以前ちょっと書いたことのお話。

 

本来なら「おいしくなれ」とか思いながら淹れるのでしょうが、今の僕はめんどくさいコーヒーが淹れたい。

常に頭の中が忙しなく賑やかであるため、無理やりゆっくりしなければならないことをやる。それが僕のなかでは「コーヒーを淹れる」でした。短い時間ではあるもののコーヒーに集中する時間。コーヒーに没頭する時間。雑念が消える時間です。

最初はお湯を注ぐだけのインスタントから始まりました。もう少しおいしいのが飲みたいとドリップパックのを飲むようになり、今ではさらにおいしいものが飲めるようペーパードリップで淹れています。しかし、それではイマイチ満足できない体質になってしまい、ミルで豆を挽いてみようかと思っています。

そんな話をしたら「豆を焙煎してみたらいいじゃないですか!」と。生豆のほうが安いし、焙煎の香りも楽しめるとのことですが、とりあえずはミルで豆を挽いてみるところから始めてみたい。豆を焙煎するのはその先ではないかと…。それでも焙煎までの選択肢を得たのは大きな収穫です。

ミルの説明を眺めて「うわあ、めんどくさそー」とぼやきながらニヤニヤ。  欲しいものリストに突っ込んでおけば届いたりするのかな。

僕のめんどくさいは手間の裏返し。せっかくめんどくさい思いをして淹れるなら、やはりおいしい1杯にしたいよね。コーヒーは奥が深い。

こっそり欲しいものリスト

【Note】コーヒーと一緒におやつを食べる

何か書きたいな、と思って浮かんだのが、コーヒーとおやつでした。

この頃ちょこちょこコーヒーを飲みに出かけています。さまざまなおいしいものを飲んでいるうちに少しだけ違いがわかるようになってきました。そして缶コーヒーはますます苦手になり、インスタントコーヒーもイマイチと感じてしまうように。

数ヵ月前からインスタントコーヒーはやめて、ペーパードリップでコーヒーを淹れています。内心「めんどくさいなあ」としばしば思う一方で、「そんなに急いで飲んでもおいしくないし」がうまい具合に噛み合い、気分の切り替えに貢献しています。気分転換も兼ねてコーヒーを淹れていると、どうやらコーヒーは「ながら」で飲むものではないような気がしてきました。

この話はまた後日。今回はコーヒーとおやつの組み合わせについて。

 

僕はコーヒーをコーヒーだけで飲みます。おやつはなし。しかし、ときどきコーヒーとセットになっておやつが付いてくるお店があります。このコーヒーとおやつを一緒に食べる組み合わせに感激してしまいました。

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今のところ、お供は焼き菓子がベスト

コーヒーの苦みとおやつの甘み。それぞれを別々に食べたときとは全く違う、一緒に食べないと出てこないおいしさにビックリ。料理の感想みたいな雰囲気になりそうですが、なんとも筆舌しがたい感覚にちょっと顔がにやけてしまいます。

 

コーヒーと一緒におやつを販売しているのは、コーヒーだけではやりくりが大変だからとか、飲み物だけ、あるいはおやつだけでは寂しいからだとか、勝手な裏事情を妄想していました。ソレらがないわけではないにしても、一緒に食べるとおいしさがより強くなる相乗効果を身をもって知り、自分の浅はかさを再認識。先入観は本当にダメ。

 

コーヒーはクッキー(ビスケットではない)と一緒に食べるのが今のところベストだと感じています。バターとの組み合わせが好きなのかもしれません。

それではちょっとコーヒーを淹れてきます。

自分の意思で決める、自分中心の世界が楽しい。

いきなり「何当たり前のこと言ってるの?」と突っ込まれそうなタイトルですが、僕は今まで自分で決めることをあまりしてきませんでした。

子どものころから大切に育てられ、進むべき正しいであろう道を進んできたつもりです。本来なら感謝すべきところも行き過ぎると考えもの。しかし、それに違和感を覚えず、示された道を進むのが当たり前としてきたのが、あまり良くなかったのだと今になってわかります。

僕はやりたいこと、思ったことを話題として家族に話していました。それについてあれこれと意見が出て、結局やらない、避けるといった消極的な方向へ。そもそも人に相談せず、自分でやるやらないを決めれば良い事柄を、話題という形で無意識に共有、報告、相談してしまっていたようです。 そのため自他共に認める家族間の強烈な仲良しさ。客観的に見ると少々気持ちの悪いものです。

 

親元を離れてから自分で決めることが多くなり、自分で行動している感覚に素晴らしい楽しさを感じています。月並みですが、生かされているのではなく、生きている。そんな感覚。

今まで人に生かされている感覚が強かったからこそ、反動でこの幸せを強く感じるのかもしれません。

 

親も初めての子育てで試行錯誤しながらしてきたと話していました。もちろん親を責めるつもりはないですし、むしろここまで良くしてくれたことに感謝しかありません。

そこからようやく自分で開拓を始めた人生が楽しくて仕方ない。人間としての自立の本質が明確に、鮮明に見えてきた。そんなことを感じています。

【Note】したい記録、いらない記録

記録が趣味な僕。この頃はその記録について不要に感じることがしばしばあります。

 

狂ったように音楽を聴いていた時期、再生した音楽のログを残せるlast.fmにハマっていました。音楽を再生した分だけ数字が増えて、それに伴って感じる謎の優越感。スマホからのログも残せるアプリを導入し、きっちり管理していました。

しかし、愛用しているiPod Classicからのログがうまく反映されない事態が起こり始めます。どうやらサービス側の問題らしく、海外でも話題になっていました。試行錯誤しながらストレスを溜める日々。さらにiPodからのログは50件までしか反映できず、ここにも不満を抱いていました。電波を使えるタイプの買い換えも検討していたくらいです。

iPodは主に車で使用しており、充電は車内で済ませています。電池がスッカラカンになることも珍しくありません。こうなると記録はどうなってしまうのだろう?何より重いiTunesを起動して行う同期がめんどくさい。

どうしたらきれいに収まるか必死で考え、めんどくささが一線を越えたとき、記録するメリットに目が行きました。

ただ再生した音楽を記録しているだけ。メリットは見当たりません。iPodからの同期はザルになり、そもそも音楽をあまり聴かなくなったので、これを機にスッパリやめました。

不思議なことに、それから気分がものすごく軽い。気になっていた悩み種が1つ消えただけで、随分身軽になれました。

 

Evernoteを使ったライフログも見直してみると僕にとって不要に感じるものが多い。

趣味の日記は読み返すと楽しいので続けます。しかし、ライフログなるものは、見返しても何も感じられないものが多く、それゆえに見返す機会がなく、ただ記録が好きで、記録していることに充実感を覚えていたようでした。

記録を振り返ることもなく、振り返ったところで何も得られないのであれば、それはただのムダな行為です。

たった1度記録の必要性に疑問を感じてから、ポロポロと本質が見えてきたのがおもしろく感じています。

 

僕の人生は僕のものでしかないし、記録した内容から人に活かせる何かが生まれることはおそらくありません。その記録から有意義なことが生じるのであれば続ける価値もあるのでしょうが、残念ながら無価値のものが非常に多く感じてしまいました。

記録は相変わらず好きです。しかし、手間に見合ったものがない。だったらその手間を違うところに使いたいと思った次第です。

【Note】心身共に落ち着かせるために

前回からの続きのようなものです。

とはいえ、うまく着地できる気がしません…。

 

さて、僕は常に何かすることを探して忙しない。アクティブにアンテナを立て続けているせいで疲弊しているのが自分でもわかります。

何をするにも欠かせない目が肉体的に一番ダメージを受けている部分で、「何かしなきゃ→目がつらい→それでも何かしなきゃ→やはり目がつらい」の悪循環がなかなか厳しい。最悪の状態では諦めて目を休めています。

そして休む状態に陥っていつも思うのが、目を閉じていると何もできないということ。何かしなければとウズウズした気持ちを抑えて目をつむる。実はこれが今の僕にできる簡単で最高のリラックス方法なのです。

 

これはマインドフルネスに近いものがあります。よくわからないので、とりあえず落ち着けばいい。そんな感じで行っています。

目をつむるとかなりの情報が遮断されます。ただひたすら目をつむっているのもつらいので、手足を揉んだり、首を曲げたりと体の動きを感じる。体の状態を感じる方向へシフトすると、頭であれこれ考える隙はなくなっていきます。

おそらくこの感じているときこそ頭が休まっているとき。さらに目を閉じて眼球を休める。手足を揉んで冷えやすい部分を温める。ストレッチでこわばった体にゆとりをもたせる。さまざまなことが合わさって心身共にスッキリできるのだと思っています。

 

少しソレを行ったあとは、呼吸も気分も落ち着いてせかせかした気持ちはありません。「まあいいや」と思えるくらいの余裕も生まれてきます。

これだけ大きな変化があれば、食事やお風呂のように毎日の生活に組み込むべきものなのでしょう。しかし、それを組み込む余裕がないところがせかせかしている証拠。ガクンと落ちたときに後悔するタイプです。

のんびりのんびり生きるため、どこに組み込もうかと思案中。それもまた試行錯誤してみようと思います。

 

全然まとまってない!

【Note】いつもせかせか忙しない

前回の記事の続きのようなものです。

 

僕はいつも時間に追われています。誰に急かされているわけでもないのに1人でせかせかと。

とりわけごはんを食べているときがひどい気がしています。これは実家のルールが影響していそうで、そのルールは「夕食は30分で食べる」というもの。

実家では家族がそろって夕食が始まり、テレビを見たり会話をしながらごはんを食べます。そして30分ほどで次々に立ち去って行く。なんらかの理由で延長戦に入るとなんともいたたまれない気持ちになってしまいます。

早々に立ち去らなければならない理由は、母がテーブルや食器を片づけられないから。とくに指摘されているわけでもなく、昔から暗黙の了解として30分の時間制限が存在しているのです。

食べるペースがイマイチ遅いときには「箸を置かずに食べてしまえ」と、よく祖母からも言われていました。

今では談笑しながら、箸を置きながら、ゆっくり食べるのが推奨されていていますが、実家では受け入れられない話題でしょう。

前述した「夕食が始まる」のワードが妙にしっくりきていて、まさに「よーいどん」なのだと思います。

 

そんなことを考えているここ最近では、ごはんをあえてゆっくり食べるようにしています。誰に急かされているわけでもない。本当にこれが正しく、誰にも急かされていないのだからゆっくり食べていいんだよ、と急いでしまうたびに自分に言い聞かせています。とくに外食は急いでしまいがちなので、ゆっくりゆっくりを心がけています。

すると、今まで見えてこなかったごはんの楽しみが見えてきたのに驚いています。それはシンプルに食べ物のおいしさであったり、料理の見た目であったり、会話の楽しさであったり、店の雰囲気だったり。

これまでは食べることに必死で周りが見えていませんでした。文字通り周りが見えていない。ただ食べることをしているだけ。

1日3回も行う食事にもっと余裕を持って取り組みたいと思ったキッカケでした。

 

次回がラストです。ぜひお付き合いください。

【Note】「何もしない」ができない

僕は「何もしない」ができません。

そもそも何をもって何もしないなのか。そんなことを考えてしまう面倒なタイプ。つまり、何かをするしないの二択しか考えられない、ニュートラルになれないタイプです。

少し時間ができれば「何かをしなければならない」と思い、無理やり何かをする。昼寝は時間がもったいないのであまりしません。昼寝も「する」なので、なかなか寝付けないとイライラしてしまいます。

 

僕は寝ているときに起こされるのがとにかく不愉快。普段は怒ったりしなくても、騒音で起こされたときには暴れたくなるくらい不機嫌に。おそらくそれは寝るをしているのを妨害されたからなのかもしれません。

また、朝の目覚めがすこぶる良く、あまりの覚醒具合から寝起き直後に九九を試してみました。結果はスムーズにクリア。寝起きに九九を試すことを覚えていて、それをそつなくこなしてしまう僕の頭はきちんと休めているのか心配になってしまいました。

寝ると起きるの切り替えがうまいのは良いのですが、少しボーっとしている時間も大事との情報を聞き入れ、それはできない相談だと眉をひそめています。

 

軽い風邪のような状態になったとき、頭がボーっとしてうまく動けないことに苛立っていました。スッキリしない気分にモヤモヤしながらも「風邪のときくらいゆっくりしたらいい」と自分に言い聞かせてのんびりと。頭がうまく働かないことによって物事に対する反応も鈍くなり、さまざまなことへの関心も薄れていました。

その状況がとても気楽に感じて、フツウの人はだいたいこんな感覚でいるのだろうかと疑問に。もしもそうならば、これは素晴らしい。いいなあ、なんてぼやいたりもしていました。

 

一緒にいる人からも「何もしないでいると落ち着かないね」なんていわれる始末で、傍から見てもやはりそのように見えるらしいです。子どもの頃に「暇だ」が口癖だったのを思い出し、それが今に影響しているのではと考えています。

いつもアクティブに何かをしていなければならないのは本当に疲れます。これが僕のなかで当たり前となっているため、ボーっとしていたときは何もしていないのに刺激的でした。

これも今の課題である「考えるより感じること」に通じているような気がしています。

 

以前にも同じようなことを考えていたのか、本を積んでいたを思い出しました。

次回へ続きます。

【Note】人の話が聞きたい

ブックマークのFeedフォルダを整理していました。

この中にはライフハックサイト、ガジェット情報、デジタル系サイトがどっさり。何気なく不要そうなものをポチポチ削除していったらスッカラカンに。

一方で、昔からお気に入りのブログを保存していたBlogフォルダでは、懐かしさを感じながら徘徊。最終的に1つも削除せず整理が完了。覗いてきたブログは変わらず更新停止ばかりでしたが、それでも昔を思い出して楽しめていました。

 

この頃涼しくなってきたせいもあり、何かを読みたい欲が出てきています。

10年近く前はポエムのような、日記のような、独り言のようなブログがたくさんあった気がしています。ブログという活きている場、ナマモノ感溢れる場から、何かおもしろいモノを見つけてみたい。

その根底には僕が前々から人間味のあるモノ、ナマモノっぽいものが読みたいと言い続けてきた部分があるのだと思います。

しかし、今ではそのようなものがなかなか見つかりません。これだけ自由に書ける場で、ないわけがない。おそらく探し方が悪いのでしょう。

 

洗練された文章でスバラシイことが綴ってある本を読むのも十二分にアリです。

今は人が書いた生々しいものが読みたい。そんな気分でいます。

【Blog】ブログを通して人と会ってきた

Twitterで仲良くしている方とお会いして、お話する機会がありました。

関西方面から関東までわざわざ来てくださり、とても楽しい時間とご縁に幸せを感じています。

 

その方と出会うキッカケになったのがこちらのブログ記事からでした。

僕からすると「こんな記事を書いたなあ」程度のことだったのですが、彼にはこれが相当刺さったようで、それ以来ものすごいアクティブになったとのこと。その延長で僕にも会いに来てくれました。

この記事を改めて読み返すと「自分いいことを書いているなあ」と自画自賛。自画自賛してしまうほどに今の僕自身にも刺さるお話でした。

しかし、このお話は今の僕には絶対書けません。その当時に強く感じた、強く思った事柄だからこそ書けた文章です。

ブログ記事は鉄と同様、熱いうちに打てですが、書こうと思ったキモチにはナマモノっぽい性質があります。そのキモチは熱量よりも、心境や心情の表れでありどんどん変質していきます。そして同じモノは書けなくなっていくのを実感しました。

 

彼はこの記事を今でも即アクセスできるようにしているらしく、書き手としては嬉しいことこの上ないです。

「この人にしか書けないモノ」を考えたときに、やはりそれはハウツー記事ではなく主観たっぷりの生々しいモノでしょう。うまい下手ではなく、おそらくナマモノっぽい熱量がカギになるような気がしています。

 

ここまで熱心に読んでくれる人がいることに、今までで一番強くブログをやっていて良かったと思いました。それが数字に反映された記事ではなく、自分の中身が出ている記事なのでなおさらです。

【Note】ブログネタがないときはムリに書かないほうがいい

ブログ更新に少し間が空くと「そろそろ書かなきゃ」と強迫観念に襲われます。今もまさにソレです。そしてそんな状態で書く記事には中身がなく、どうしようもない記事になってしまう場合が多い。

 

僕はこれまでブログが主体の視線でした。これはブログネタになる。そんなことが常に念頭にありました。ブログへのアウトプットを気にしているため、僕自身の感覚をないがしろにしていたのを改めて感じています。今では自分が主体の視線となり、感じたことをそのまま自分の中で処理するようになっています。そしてこれが全ての人に対しても大切なことなのではと考えています。

そんなこんなでブログネタも以前より見つかりづらくなり、僕の中身が変化しているのを体感中。ネタの発見に役立っていた神経質が部分が緩和されつつあり、総じて良い方向へ動いているのだと捉えています。

 

ブログへのアウトプットは僕の趣味、生活の一部です。しかし、ブログに注ぐエネルギーをもう少し自分のほうに向けてみたら、随分と生きやすくなった気がしています。

アクセス数などもそこそこ安定してきたので、質を上げた記事を書けるようになるが次の課題でしょうか。

やり始めたら何事もどこまでも全力疾走な僕は、手の抜き方も知る必要があるように感じています。

【Note】Instagramにミュート機能がほしい

SNSにおいてブロックやミュートには縁がない平和な生活を送っていました。

Twitterではリストを活用してツイートの管理をしています。ゲームツイートの多い人のリスト、情報配信アカウントのリストなどなど、カテゴリごとにまとめておけば読むときに便利です。あまり関心のない人はリスト入れず、タイムラインからときどき見るようなスタイルになっています。

一方でInstagramにはタイムラインしかありません。フォローしている人が多ければそのぶんタイムラインも賑やかになってしまい、ゴテゴテしたのが苦手な僕はフォロー数が少なめ。

そんな緩く流れているタイムラインに、やや苦手な投稿をする方が一人。フォローを外してしまえば済む話ですが、たまにコメントがあったり、共通のフォロワーもいるので切り捨てられないのが厄介。いざこざが起こるのも嫌なので、結局ブロックをして今に至ります。

もっとドライでありたいと思う反面、切ったり切られたりを気にするのは仕方ない部分でもあるのかもしれません。そもそもフォローを外すことを「切る」「切られる」といってしまうのが既にダメな気がしています。

お互いのココロの平和のためにミュート機能があれば便利だと思いました。

しかしブロックするまでは妙な不安がありましたが、してしまうと案外あっさりとしています。ヘンに悩むくらいならさっさとブロックしたほうがスッキリするかもしれません。

ただフォローを外すだけ、これから距離を置く人への気遣い。めんどくさいなあ。

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