おまめモ

おまめがメモをしています

【Note】個性とか、正しさとか

声が小さいとか、滑舌が良くないとか、うまく話せないとか、伝わるように表現できないとか、諸々すべてが今のままではダメだと、自分が立派であろうとすることに必死でいた。

しかし逆に、ハキハキとした声、歯切れの良い話し方、軽快なトークなど、そもそもそんなものが自分に求められているのか?勝手に自分がそうあるべきと考えているだけではないのか。そんな風に観察し始めてから気持ちがラクになってきた。

もちろん生活に問題があるのなら改善していかなければならないが、声が小さいなどと指摘されたことなど一度もない。滑舌が悪いのは理解しているから、気をつけて話している。いろんなことが自分ひとりで、思い込んで背負っている枷だったとようやく少しだけ見えてきた。

上手に話せない点は、それはもう個性の範疇だと思うし、万人に思惑が伝わるような表現は不可能だし。

自分自身が万能であろうとすることに、諦めを認められるようになったらだいぶ呼吸がしやすい。諦めや、仕方ないが大嫌いだった僕は、自分を認めることができなかったんだと思う。だからと言って決して卑下はしたくない。そんな悲しいことはしたくない。でも自分に自信もない。

 

万能ではない自分の部分を「個性」として見ることができるようになったとき、声が小さいのも、滑舌が悪いのも、うまく話せないことも、いろんな要素が個性として見れるようになってきた。この人は声が大きい、あの人は向こう見ず、その人は否定的、そんなのも「そういう人」という個性のくくりで流してしまって良い部分なんだと。このくくりをどのように捉えるかで、たくさんのことの見え方が変わってくる。

ぼくは正しさを信念としているからこそ、『大きな声でハキハキとしっかり伝わるように話さなければならない』と思い込んでいた。正しさほど個性を殺してしまうものはない。

"もっと自分勝手に生きれば良い"と言われたことがずっと頭に残っていて、事あるごとにその言葉が蘇ってくる。自分が悩んでいることのほどんどがどうでも良いことなんだろう。

 

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