「何かを伝えようとしたとき、不要なものが削ぎ落とされたものが詩になる」的なお話(大意)が非常に印象深く残っている。
僕自身、自分の伝えたいことを形にするとき、ソレにピッタリと該当する言葉をパズルのように探して当てはめている(きっとこれが原因で口にして話すことがとても苦手)。するとそれはやはり少し聞き慣れない言葉であったり、言い回しであったりするため、詩っぽくなるように思っていた。
それは、そのときの言葉であり、引き出しであり、感覚である。時間が経ってからそれを読み返してみると、様々なことを思う。
率直には、だいたいは滑稽である。
またその「詩っぽいもの」は、誰かの言葉を読んでも一般的に?受け入れがたいものだったり、ヘンにカッコつけたように見えるものであったり、浮き世離れしたような雰囲気であったりと、変わったもののように受け取られがちだと感じている。
それを受け取ることができる感性は、鍵と鍵穴のように複雑であるからだとポジティブに考えておきたい。
言葉のチョイスに関連する感覚では、これまではあまり関心がなかった邦画や、日本の書籍を好んで手に取るようになっている。
やはり翻訳された言葉は、どうしても翻訳した人の感覚が混ざってしまっている。どうしてこの言葉を選んだのか。このような言い回しをしているのだろうか。そんなことを誰かを介さず自分で直接受け取ることができるのが日本語だからだ。
邦画では間の取り方や、シーンの切り替わりなど、邦画ならではの構成も味わえる。
映画や読書などから自分の語彙力も強化されて、さらに言い回しに深みが出てくるのも成長を感じられてまた楽しい。
そんなことを思うと言葉の一つひとつが、言葉の意味の他に含みのあるような気がしておもしろくなってくるように思っている。