おまめモ

おまめがメモをしています

【Note】何もしないをする

数年ぶりに風邪をひいた。ありがたいことに僕は丈夫な方らしく、風邪は滅多にひかない。「不調時は健康のありがたさについて考える期間」と、解熱剤を飲んで随分ラクになったせいで調子の良いことを言っている。とはいえ、健康のありがたさをしみじみ痛感。

普段から能動的に過ごしたい強迫に駆られているので、のんびりするのが得意ではない。だから、風邪などのときには「何もしないをする」と称して、何もしないに徹している。

僕の中では、「諦め」、「投げ出す」、「怠惰」みたいなカテゴリーに入っちゃうような期間なのに、その間の気持ちは軽くなる。常々やらなきゃと思うことばかりで勝手に苦しんでいると客観的に感じる場面ではあるが、開放されるためにやめる方へ舵を切れない謎。何かしている方がラクだから、何かしているんだろう。

 

今日は悪寒に耐えながらスマホでアニメを見た。横になって見るのは首が痛いし腕も痛い。アニメに集中できない。

食欲がないのが不安だったが、なんだかんだで今回はごはんが食べられた。体力もあるおかげで安心感もある。

ちびっこのお風呂も奥様に任せて、今日は1人でゆっくりと入浴。髪がパサパサなことに驚いた。

何もしないをしていて、いつもと少し違う感覚。何もしないと言いながら結局ブログを書いているし。

頭がぼーっとしてうまくまとめられない。そういえば風邪だった。

【Note】『嫌われる勇気』を読み終えた

『嫌われる勇気』は、先日の記事(【Note】よくわからない苦しみの発見 - おまめモ)を書いているときに読み始めたのだが、どんどん引き込まれてサクッと読み終えてしまった。

この本は本棚にしまっておくよりも、机の上に投げておいていつでも読めるようにしておきたい本。とても素敵な内容だった。

何より僕の生活の中で大事にしているワードがたくさん出てきたことに驚いた。「いまココ」「諦め」「受け入れる」終盤に出てきたこれらは強烈に覚えている。

生きづらいことをずっと考えてきて、答えのピースはすでに持っていたのを『嫌われる勇気』を読んで確信した。持っていた答えを納得させられた本だった。

もちろん書かれていることが全てではないと考えるのもまた自由だと思うし、全人類に当てはまるようなものではないとも思いたい。けれども、僕には答えのようなものが書かれてあった。ただ、これをシンプルな答えとしてしまうのは怖ろしい、人はもっと複雑であってほしい、そう考えてしまうほど、僕にはハマった本だった。

 

この本を通して、現在の課題である、素で人と話をすることを身に着けたいと思う。

というのも、気がつけば自分を押し殺して話をしている場面が多く、これまた周りの様子を伺って、当たり障りのない無難な答えを、毒にも薬にもならない自分の意見まがいを発しているのに嫌気が差していた。

この自分が隠れてしまっていることを発見できただけでも大収穫でもあるように思うが、今はその先、自分を出せない不満を解消したい。

人よりも自分をしっかり見つめて、毒や薬、あるいはどちらにもならない自分の意見を少しでも容易に発信できるよう、注意を払えるきっかけとなった本だった。

 

また先日、『幸せになる勇気』を買ってきた。明日から読み始めようと思う。

【Note】よくわからない苦しみの発見

随分長い間、理由もわからず精神的に苦しい時間を生きてきた。この謎の苦しみが、最近になってようやく解け始めて来たような気がする。具体的に問題を示すことができるまでの認識にはなっていないが、絡みに絡まった釣り糸のような問題のほどき方を、掴みかけている感じがする。ちなみに絡まった糸をほどくとか、ホースをきれいに巻き取ること自体も、苦手というよりすごく嫌いだったりする。

そもそも僕は問題の仕分けが下手だ。この辺も最近になって認識したこと。物事を極端に見る傾向にあるため、課題があってもぼんやりしたものを発見しづらいように思う。

だから、なんだかよくわからない苦しみの中を、なんだかよくわからない苦しみを抱えて、なんだかよくわからない苦しみにぶつかりながら、歩いてきた。

 

このなんだかよくわからない苦しみが見えるようになったのは、話の合う人との出会いがキッカケだと思っている。その人はこの手の話に理解のある人で、やはり苦しみの中を生きてきた人だった。

仕分け作業が下手な僕は話を重ねていくうちに、自分の中の問題がうっすら見えてきた。第一ステップであり、最大のポイントでもある、自分の抱えている問題の発見は、話しをすることで実行できたのである。書き出すことも有効だとよく聞くが、自分の中でそれらを整理するのが問題を洗い出すコツなのだろう。…と、どのようなことでも言うのは簡単で、いざそれを遂行させるのは容易なことではない。

 

なんだかよくわからない苦しみの発見は、おそらくタイミングも強く関わってくる。

「歳を取ると生きるのが楽になる」とか「40代になればいろんなことがわかってくる」とか、そういう類の話に近くて、自分の経験と人の話が自分自身に落とし込めるようになるタイミングが存在する。僕はそのように感じた。

これまでは自分に対する思いだったり、夢だったり、希望だったり、理想ばかり高かったのが、ある時点で「諦め」「納得」「受け入れる」この辺の感覚が飲み込めるようになってきた(これらはネガティブな意味ではない)。これがタイミングだと思う。自分の気持ち以外の感覚を落とし込めるタイミング。そんなものがどこかにあって、これが自力でなんとかなるものではない。だから、そこに苦しみが生じるのかもしれない。そんなことをここ最近で考えていた。

 

「諦め」とか「納得」などについては、また今度書きたいと思う。

 

最近読んだ本たち↓

「なぜ、あなたのアダルトチルドレンは改善されないのか?」は、父との関わりが薄めだった僕にはなかなか強烈だった。

 

【Note】個性とか、正しさとか

声が小さいとか、滑舌が良くないとか、うまく話せないとか、伝わるように表現できないとか、諸々すべてが今のままではダメだと、自分が立派であろうとすることに必死でいた。

しかし逆に、ハキハキとした声、歯切れの良い話し方、軽快なトークなど、そもそもそんなものが自分に求められているのか?勝手に自分がそうあるべきと考えているだけではないのか。そんな風に観察し始めてから気持ちがラクになってきた。

もちろん生活に問題があるのなら改善していかなければならないが、声が小さいなどと指摘されたことなど一度もない。滑舌が悪いのは理解しているから、気をつけて話している。いろんなことが自分ひとりで、思い込んで背負っている枷だったとようやく少しだけ見えてきた。

上手に話せない点は、それはもう個性の範疇だと思うし、万人に思惑が伝わるような表現は不可能だし。

自分自身が万能であろうとすることに、諦めを認められるようになったらだいぶ呼吸がしやすい。諦めや、仕方ないが大嫌いだった僕は、自分を認めることができなかったんだと思う。だからと言って決して卑下はしたくない。そんな悲しいことはしたくない。でも自分に自信もない。

 

万能ではない自分の部分を「個性」として見ることができるようになったとき、声が小さいのも、滑舌が悪いのも、うまく話せないことも、いろんな要素が個性として見れるようになってきた。この人は声が大きい、あの人は向こう見ず、その人は否定的、そんなのも「そういう人」という個性のくくりで流してしまって良い部分なんだと。このくくりをどのように捉えるかで、たくさんのことの見え方が変わってくる。

ぼくは正しさを信念としているからこそ、『大きな声でハキハキとしっかり伝わるように話さなければならない』と思い込んでいた。正しさほど個性を殺してしまうものはない。

"もっと自分勝手に生きれば良い"と言われたことがずっと頭に残っていて、事あるごとにその言葉が蘇ってくる。自分が悩んでいることのほどんどがどうでも良いことなんだろう。

 

【Note】これは自分の人生

先日どこかで見かけた「自分の人生の主役を子どもにすると楽に生きられる(意訳)」をずっと反芻している。楽に生きるのが下手すぎるため、目から鱗だった。

今もちょうど自信喪失の沼にハマっていて、自分がどうありたいかよりも、振る舞いの正しさが浮かんできてしまう。その都度自分の気持ちがイチバンだと言い聞かせているが、言葉一つ発するのに結局遠回りしてしまうのに自己嫌悪。次第にどんどん口数が減ってしまう。

問題解決のため、素直に自分の思うことを言うのはもちろんわかる。しかし今は頭の中に言動を監視している、自信のない自分が居座っている。もうさっさと退去してほしい。

頭と体が一体化している、やりすぎた、言い過ぎたとなる人がうらやましい。これらは自分自身の反省となるが、僕の場合、言動を周りに合わせ、自分の気持ちにブレーキがかかりまくっているから、スッキリとした反省が生まれてこない。自分から出たアクションじゃないからこそ、また歪な後悔が生まれてくる。そもそも一体化している人は、僕が思うほど、この手の反省を行っていないとも思う。

 

そんな苦しみから目を背けるために、子どもが主役の人生を送れば。そんなふうに先程の言葉を捉えてしまう。

目を背けるため。

 

しかし、これは少し違う。自分の人生は自分だけのものだし、苦しみから逃れるためなどと考えられた子どもにだって、申し訳ない気持ちになる。もちろん、子どものためにも使われていく人生だが、自分の人生があっての子どもため。バランスが逆転することはない。

子どもがいれば、十分な割り切れる理由になるとは思うけど。

つらいが魂を磨くのだ。

【Note】邦画が好きになった

映画を見始めた頃、洋画が好きだった。おそらく日本以外の雰囲気を求めていたから。理解できない言語だったり、国外の建物や人物や背景だったり、もちろん映画だけの世界観だったり。ただただ知らない世界に入り込んで、それに触れるのが楽しかった。日常から離れて映画の世界に入り込む。これが主な映画を見る理由。

現実逃避な面が強いせいか、映画を見終えた満足感、余韻はしっかり感じ取れるけど、内容が案外入っていない場合がある。マジメに見ているのかと怒られたりもする。きっと壮大な物語の勢いに流されて、ただただ堪能していると僕自身は思っている。だから、基本的には映画の内容に不満はない。おもしろい、おもしろくないはもちろんある。でも、そのまとまりでGOを出したのであれば、それが一つの創作物。何度も何度も手を加えて、納得のいくまで弄り倒して、それでも納得できずにGOを出すこともある。そのつらさを、この地味なブログを続けていて理解ができる。こういうものだと落とし込めてしまう。

先の『納得のいくまで弄り倒す過程』がテレビでも取り上げられ、はっきりと見られたのは庵野秀明監督の作品だった。とりわけてエヴァンゲリオンは、あれだけ苦しんで創り出したものは何を伝えたいのか、何を表現したいのかを感じていた。もちろん大好きだし、不満もない。あの世界観、背景、道具、場面、衣装、食べ物、間、などなど、選んだ理由の意味を感じ取ろうとしたりもしていた。

そこでタイトルに戻り、邦画が好きになった理由。それは、国産のものは豊富な予備知識があるため、一つひとつの感覚を受け取りやすい。率直に、親しみがあり、わかりやすい面があるから。もちろん様々な楽しみ方がある中で、今回僕が得たものはそこだった。洋画に入り込みづらさはない。一方で邦画には入り込みやすさがある。より自国日本の別世界に入り込めるから、邦画を見たいと思うようになった。

実は身近な国内にも、知らない雰囲気や、新鮮な空気、未知の世界は溢れているみたい。

 

【Note】書くことがない

趣味であるブログを書きたい気持ちに対して、書くネタがない。正確には、ネタ探しのアンテナ感度が落ちている。さらに記事を練り込む労力もない。ないない尽くしで嫌になる。つまるところ、やらない理由を並べているネガティブな雰囲気。

何か思うことがあってもツイートで済ませてしまうことが非常に多く、『わざわざ記事にしなくても』などと思ってしまう。『記事にしたところで』も強力な一因。

とはいえ、何年も続けているこの場所を活用していきたいのは事実で、このように好きなことを吐き出せる場所として貴重な居場所になっている。

 

そんな自分のスペースを使っていくために、書くことを捻出していきたい。

考えていることをほぐして展開したり、感じたことを言葉にしたり、気になっていることを深掘りして自分のものにしてみたり。

今までは、検索されるよう外側を意識した記事を作ってきたけど、これからは自分の中身を耕すような記事を書いていきたい。自己満足な内容でも誰か一人くらい読んでくれるんじゃないかと、やりがいのような、後押しされるような、人任せな期待を抱いている。ハハ

 

まず何かを少し書いてみよう。

【Note】他人軸ではなく自分軸にする

自分の気持ちを表現できる人がうらやましいと考えるようになった。僕自身、それができると思っていたつもりでいたけど、どうも非常に不得意なことらしい。

 

僕は他人の気持ちを優先させている。食べたいこと、行きたい場所、やりたいことなど、これと言って自分が通したい物事はなく、それなら他人の希望をどうぞどうぞと聞き入れる。それが理由で“やさしい”と呼ばれるのだろう。

しかし、「自分が通したいこと」は本当にないのだろうか。貫き通したいことはないかもしれない。でも、それについて思うことは絶対にある。その自分が思ったことを汲み取るのが苦手で、自分の気持ちを迷子にさせていると指摘される。

これまで生きてきた中で、おそらく同じことはたくさん言われてきたと思うが、言葉の意味を理解できていなかった。子どもの頃に親から言われた『もっと悪いことだってして良いんだ』とすごく謎めいた言葉や、恩師からの印象的な『自分の気持ちをちゃんと聞いてあげて』の言葉も、同様の意味を持っていると感じる。そして今回お師さんに突かれる迷子の話が繋がって、自分の気持ちを拾うようになった。気を抜くとすぐ他人軸に考えてしまうから、自分軸で物事を考えるよう気をつけている。

 

さらに他人を優先させる他人軸で動いているために、非常にストレスの溜まる生き方となってしまっていて、これが自分軸となればラクに生きられるようになる。

他人がやさしいと感じなくなってしまうかもしれないが、自分にやさしくなるというのはそういうことなのかもしれない。

 

 

ずっと下書きに留めてあったこの記事が気になって仕方がなかった。仕事を辞めようかと真剣に考えていたときのネガティブが込められている。思うようにまとめられなかったけど、気持ちも少しポジティブになっているので供養も兼ねて終わらせた。

【Note】話し方や語彙力など

言いたいことを伝えるには語彙力が必要で、語彙力を鍛えるためには本を読む必要があると最近どこかで聞いた。

確かにぼちぼち本を読むようになって語彙力がついたというか、単語の意味や読み方について真剣に調べるようになった。紙の本ではGoogleレンズを使って調べているが、電子書籍で利用しているKindleは、文字を指でなぞれば検索となる。これが大変便利。わからない言葉を調べる点において電子書籍は最強だと思う。

ちなみに最近読んだおもしろい本たち↓

そして、言いたいことが伝えられるかというと、そうでもない。ぼくは「原因から結果」をひとくくりで話す傾向にあって、ちょっとだけ回りくどいらしい。しかし近くにもっともっと回りくどい人がいるので、ぼくの回りくどさは薄まってはいるし、その人が反面教師となってくれている。要点だけを簡潔に話しても良いが、『なんで?』と突っ込まれるのが嫌なので、話に肉付けが行われてしまう。ぜい肉を落としてスマートに話したいと常々反省はしている。反省はしていても、この悩みはしばらくつきまとってくるだろう。

また、相手が話したいこと、その意図をしっかり受け取るように気をつけている。しっかりとは、極力ズレを少なくすること。同じテーマで話していても、双方で見ているものが異なり、認識がズレている場合が非常に多い。そしてこのズレはとても不快で苦しい。この問題によって、共通の認識を持つ重要性と、持たせる難しさ、発生してしまうズレの危険性など、人は、それぞれであると噛み締めている。

【Note】話を聞くこと

話すことが好きな人はよく聞くけど、ぼくは話を聞くことが好き。

理由は、自分の頭で考えられることを超えた情報を得られるから。

自分が真剣に悩んでいることは、実は全くたいしたことでないような事実を伺ったり、自分が体験したことのない話を聞いて世界を広げられたり、謎の言葉を耳にしてソレについて知識を得たり、話を聞くことによってたくさんのことを得られるのが、たまらなく楽しい。

もちろん誰とでも、どんな話でもというワケにはいかない。ただの自慢話や、興味のない話を聞かされることも山のようにある。そんなときには、この人は何を目的としてこの会話をしているのか、この話のなかで伝えたいことはなにかを、遊びとして考え、退屈にならないようやり過ごしている。

このポイントが読み取れるようになると、聞く力のほかに、自分が伝えたいことを表現する場合に、どのような順序で、どういった説明が必要なのかを客観的に見えるようになる。ような気がする。

 

こんなふうに、話の聞き方や、話を聞くコツをもっと蓄えたいのに、書店やネットには、話し方に対して聞き方について語られているものはとても少ない。

LISTENはぼくが求めている内容と少し違っていて、あるいはボリュームが大きくて頭にあまり入っていない感じがする。

なにか聞くことに関して学べることがあれば、ぜひ教えていただきたいです。

 

人の話を聞くことができると、相手をヨイショすることができて、自分のペースに載せてしまうこともできてしまう。もっというと受け身なのに相手を支配できてしまいそう。こんなことを思いながら話を聞いてるイヤなヤツ。

【Note】早く知るだけが楽しさではないみたい

現在マンガ熱が上がっていて、中断していた作品や気になっている作品を読み漁っています。ただいまワンピースの93巻、ヤスさんステキ過ぎます。

この勢いで気になっていた『鬼滅の刃』を借りてみました。「遊郭編」を見終えて興奮冷めやらぬ中「刀鍛冶の里編」へ。しかし、どうも楽しめません。もちろんストーリーは楽しいです。だけど、没入感がイマイチでその世界にハマれませんでした。

アニメは映像や音で世界へ引き込む力がとても強いので、『鬼滅の刃』はぼくにはアニメが合っているのかもしれません。とくにマンガは展開の早さが気になりました。もっとじっくり眺めていたいのに、自分のペースで進められるマンガは次へつぎへ進めてしまいます。一方、アニメはペースを握られているので焦らされながら引き込まれるのが好きでした。煉獄さんや天元様のシリアスシーンの間。ここがたまらなく好きです。

そんなこんなで、7冊くらいレンタルしてきたマンガは2冊読んで返却予定でいます。お金は損をしましたが、楽しめる種を巻くことの勉強代だと思えば破格でしょう。

 

これまでは先を知りたい気持ちがとにかく勝っていました。ですが、待つ楽しみや一体になって楽しむこと、楽しませられることなど、自分のペースだけでは得られない楽しさを大事にしたいと強く感じています。

【Note】トラッカーに管理されたくない

運動管理や睡眠管理を目的として昨年末にFitbit Chage3を購入しました。本命はスマホの通知に気付くためだったのですが、生活管理の比重も重たく、Fitbitに励ましてもらってアクティブな毎日を目指していました。

散歩やウォーキング、ランニングはきっちりと計測したいので、信号で止まるのはすごい不快です。途中休憩もやらないようがんばります。終了したあとに表示されるルートや数字が達成感を高めてくれていました。

睡眠も同様にしっかりと取るようにしています。もともと睡眠にはこだわりがあったので、睡眠時の呼吸や心拍などが可視化され、具体的にわかるのがおもしろかったです。また、睡眠レベルやそれらが採点されるのも興味深く眺めていました。

しかし、管理することを苦しく感じていた部分もあり、その苦しみ対して結果のアンバランスさが一線を超えたので、全てをやめました。

 

僕は強迫的な思考があるため、「〜しなくてはならない」でしばしば息が詰まります。それが趣味である散歩にも起こっていて、止まってはならない、ひいては休憩してはならない、となり、息抜きで行っていることで自分を苦しめているときがままあります。

せっかく風が気持ち良くゆっくりしたい場面でも「止まってはならない」。ポケモンGOでポケモンがたくさんいる場所でも「止まってはならない」。疲れてフラフラしていても「休憩してはならない」。自分でも意味がわからないのですが、こうなってしまうのです。それが計測されている状態ではさらに強くなります。おそらく、僕にはこの手の管理は合わないのだと思いました。

睡眠もまた同じく、採点されることで眠れていないことを強く感じてしまい、不快感を強烈に感じます。それなら自分自身でよく眠れた、よく眠れなかったと管理すれば良いと落ち着きました。睡眠時にトラッカーを着けているのも邪魔ですし、なにより記録されたものを全く見ていないという大きな無駄がありました。

客観的な自分に管理されず、直感的にもっと自由でいたら良いのではないか。そんなふうに思っています。

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スマイルのままフリーズして交換対応になった相棒の「スマイル」

Chage3は仕事中に電話やLINEなどを逃さないよう活用中です。トラッカータイプではなく、スマートウォッチなら楽しく使えそうな予感がして買い換える理由を探しています。

【Note】コロナのせいで海外への発送が高い

アメリカの友人宛に郵便局から荷物を送るお話です。今回もまたドキドキでした。

ちなみに前回はコチラ。

【LifeStyle】船便を利用した海外発送で荷物が紛失してしまったらしい - おまめモ

 

まず、2021年1月から海外へ荷物を送るのにPC、またはスマホから手続きが必要となりました。手書きの伝票では受け付けられないとのことです。

国際郵便マイページサービス

入力した情報を送信し、郵便局店頭でラベルを自分で発行します。そして窓口へ。 今回も不慣れなためにトラブルが発生しラベルを作り直したので、その場で対応できるようスマホから入力してみるのがオススメです。

 

また、コロナの影響で便の数も減っています。SAL便は選択不可とのことでした。船便は前回の件での不安が残っているため、今回は航空便一択。

不幸なことに追跡ができない?等の理由で安価な国際eパケットの選択肢も消えて、EMS(国際スピード郵便)で発送することになりました。送料は上がりますが、宛先まで最短3日とあったので安心感は大きいです。しかし、店頭でのラベル情報の再入力、再発行に加え、週末の流れの悪い列への並び直し。これはなかなかダルかったです。

 

今回の荷物はそこまで重さはないため、送料はせいぜい2,000円〜3,000円くらいの予想をしていたところ、ちらっと見えた5,000円に近い数字。苦笑いが溢れてしまいます。そして出された送料は、1,274gで通常の送料3,700円に特別追加料金の1,200円が足され4,900円となりました。

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コロナの影響で追加料金が発生しています

おやつ1つ入れていなければワンコイン程度安くなっていたのがまた悔しい。そもそも持っていく前に家で調べておけば、ということでもあるのですが、これまた面倒ですし…。

しれっと出てきた特別追加料金は、コロナの影響によるもの。事前に郵便局で話を聞いていたから良かったものの、いきなりこの値段を提示されていたらもっと驚きそうです。しかし、今回利用した郵便局は説明を受けたところではなかったので、そのへんの説明は特別あるワケではないのでしょうか。

EMS特別追加料金の導入のお知らせ | 日本郵便株式会社

 

とにかく無事に発送できたので、あとは相手からの受け取りメッセージを待つだけです。しかし、ここからもまた長い道のりでした。

発送手続きをしたのが7月11日。そこから日本を出たのが12日のお昼。到着まで3日程度ならあっさり完了するつもりだったのが、3日、4日立っても音沙汰なし。追跡ページで確認をしても、日本を出てからの更新がありません。

4日、5日、1週間経っても日本を出たままの表示で、もちろん友人も受け取っていません。不安と不満でいっぱいの7月23日にようやくページが更新され、アメリカに到着とのことでした。この間に何度このページを眺めていたことか。

そして27日になってやっと完了となりました。これだけ日数がかかったのもやはりコロナの影響なのでしょう。

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荷物を送り出してから16日が経ってやっとです

宛先さえきちんとしていればまず問題はないはずです。そこもまた慣れていない問題からとても心配でした。住所が微妙に違っていても届く日本と、そのへんが不明が海外との勝手の違いも心配の一因です。

コロナの影響で値上げされた分を、本来なら何か付け加えてあげたかったと悔しさも残ります。カップ麺、1つ入れなければ良かったかなあ…。

【Note】聞いて声に出す英語学習

ぼちぼち続けている英語学習。現在では前回書いたときから勉強スタイルを変えて、内容の密度を上げるようにしています。

前回の記事はコチラ。

【Note】ラジオ英会話を続けて1年が経った - おまめモ

 

勉強法が変わるキッカケとなったのは、英語学習に活用している「台本なし英会話レッスン」で『しっくり来ない学習法を続けていてもダメだから、自分に合った学習法を探したほうがいい』というようなお話を聞いたこと。

145. Seanはどうやって日本語を学んだ? - 英語のそーた & Sean & Nate | Podcast on Spotify

ちょうどラジオ英会話での学習に物足りなさを感じていたときだったので、非常にタイムリーだったのを覚えています。

とはいえ、ラジオ英会話で学んでいることは、まだまだ新鮮なことばかりです。そこに物足りなさを感じてしまう原因は慣れだと考え、ラジオ英会話はそのまま使い、勉強法を変えてみました。

 

まず、テキストを写すのはやめる。

これまでラジオ英会話のテキストを写し、理解を深めようとしてきました。しかし、この方法は僕には向いておらず、せっかく時間をかけて写しても、ほとんど覚えられていませんでした。効果がないならバッサリです。

ノートは主にその回でわからなかった単語の練習に使用しています。

 

次に、音声をしっかり聞く。

ラジオ英会話はスマホアプリを使用しているので、聞き取れないワードや、理解の難しい解説は何度も聞くようにしています。

さらに僕の場合、単語やフレーズは聞いたほうが記憶しやすいので、そのへんも意識しながら聞いています。このおかげで、英語の発音から次第にスペルの傾向も見えてきました。

音として英単語を覚える「キクタン」も使っています。 

 

最後に、英語を声に出す。

今までないがしろにしてきた読み上げを真剣に行うようになってから、英語の発音や並び順についての視野が広がりました。声に出すことによって単語も覚えられますし、口や舌を動かすことで、より学習内容が印象深くなります。

また、息継ぎを意識しながらのフレーズは案外難しく、次に来るワードに注意が向きます。そのため、文法も次第に頭に入っていくような感覚があります。

今まで軽視してきたポイントを今では最も重視しています。

 

 

今の学習法に物足りなさを感じたら、それは次のステップへのサインのようです。新しい環境へ移る試行錯誤は楽しいものですが、新しいテキスト、新しい学習法の他に、今しっくりときているものを掘り下げる選択肢も有力候補なのだと思いました。

 

ちなみに『台本なし英会話レッスン』は、文化の違いをテーマに話しているポッドキャストです。おもしろいのでぜひ。

台本なし英会話レッスン 新EP『Seanはどうやって友達を作る?💘🍺🗣』 (@sota_nate) | Twitter

【Note】さよなら、Evernote

スマホを持ち始めてからずっと一緒だったEvernoteをアンインストールしようと思います。

始めの頃はメモを取るのに活用していましたが、この頃は文字しか入力しなくなったのでサクサク動くGoogle Keepのほうが圧倒的に使いやすく、Androidスマホと相性が良いので乗り換えを決めました。じわじわとKeepに移行していたのもあり、時がきたといった具合です。

今現在のEvernoteの活用は、観た映画をメモしている「映画メモ」、読んだ本をメモしている「読書メモ」、このほかにツイートを保存する「ツイエバ」くらいしか使っていません。

「映画メモ」と「読書メモ」は作品タイトルを書いて簡単に感想をまとめている程度です。読んだ印を残してノートの数を増やすだけの自己満足でしかなく、読み返すこともしません。そこで一つを解放してみようと思いました。

これらのメモは生活において重要に見えがちですが、記録が趣味になっている僕にとって、強迫が含まれた縛りや足かせのようになっています。そのためにやめてみる価値があると考えました。

しかし、やめるのが恐ろしい不思議な不安もあり、ずっと続けていることをやめるというのは、こんなことでも恐怖に感じてしまうようです。

 

Evernoteが流行っていたときにはノート数に上限があるのを知りビビっていました。結局はそんなところへ至る気配もなく、一瞬でも気にかけてしまったことを笑ってしまいます。

楽しいメモの習慣をどうもありがとう。

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