久々に父と電話で話をして、「ちゃんと食べてる?」と尋ねられたので「食べてると思う」と答えた。
すると、「"食べてると思う"じゃなくて、"食べてる"だろ」と言われたのが妙に引っ掛かった。
僕は「思う」を語尾に付けて言葉を濁すのがくせのようになっている。
元気か尋ねられるときにも「ぼちぼち」など、ハッキリと答えられない。
良くないと理解しているが、なかなか直らないのが地味に気になっている。
以前、元気か尋ねられた答えに「元気だと思う」と肯定しながら濁す返答をした。
毎回答えを濁す僕を知っていた相手は、仮にも元気と返事をしたことに相当驚いていたのを今でも覚えている。
いまさら心底痛感したのは、やはり僕は父譲りの1か10かの性格。
元気と胸を張って答えられるのは10の状態の元気に限られる。
したがって、10以外は元気なのかわからないために濁してしまう。
そもそも10の元気は存在するのか怪しく、心配性で臆病で弱気の僕には10の元気は存在しないのではないかと考える。
という話をしていたら、「自分のものさしで元気だと思えたら、元気と答えて良いんじゃない?」とのご意見をいただいた。
もっともな答えだと納得したのもつかの間。
元気かよくわからないから"思う"で濁しているんだ。
再びわからないループに戻る。
べつな方とは「"ぼちぼち"が元気という意味で、"元気"はあまり使わない」と話し合ったことがある。
そもそも僕自身、意識的に元気か尋ねた記憶がないため、受け取る側として考えたことがなかったのだが、「ぼちぼち」や「まあまあ」との返事だったらどのような気分だろう。
おそらく挨拶のニュアンスなので、そこまで気には留めないはず。
しかし、「元気」と返事をもらうのが一番良い気分になる。はず。
「ぼちぼち」=「元気」だったら「元気」を使うように心がけてみようと考えた1日だった。